ふるさとに伝わる昔話
不乃木山古墳は丹波道主の尊の墓かも
東本荘にある「車塚古墳」が丹波道主命の陵であるとされているが、同じように前方後円墳であり、規模は車塚を上回る大きさをもつ「不乃木山古墳」もひょっとして同じぐらいの勢力を持った豪族の墓と推測されるが定かではない。周りには小さな円墳があり、この山が主墳であろうともいわれている。そこにどのような歴史があったのか、古代ロマンに惹かれるゆえんである。発掘ごっこで子供の頃に須恵器を発見して興奮した記憶がよみがえる。
昭和35年前後に山の芋を貯蔵する大きな穴があけられた。山の中央部にまで届きそうな奥行きの深いトンネルだった。宝物でも発見されるかのような期待があったが、今は利用もされず封鎖されたままである。
変なお講があったという
田舎のどの村にも伊勢講・蛭子講・愛宕講・大師講・観音講・稲荷講などと呼ばれる多種多様な「たのもし講」(助け合い・支え合いの地域福祉活動の原点)がある。
毎月1回講がある村では、江戸時代、粟や稗が主食でもその日に限っては白米を食べることが許されていたともいう。数多くの講をすることで七公三民の高い年貢に苦しめられていた中での先人達の智恵を知る思いがする。大きな碗にてんてこ盛りにご飯を入れて食べる村や白和え(大根の千切りを豆腐であえたもの)を同じように盛って食べる村など、話を聞くだけでも面白い。
宮ノ前にも風変わりな講があった。「伊勢講」は別名「セリ講」とも呼ばれ、小川に生えている草のセリを塩茹でしたものを食べる風習があり、講の当番は厳寒の時期にセリを確保しなければならず、手に入れるのが一苦労だったという。なぜ講の主役があまり好んで食べないセリなのかは民俗学的にも不明である。
波部姓のはじめは波々伯部姓とか
高城山の八上城を居城に丹波一円に絶大な勢力を誇っていた波多野氏、織田信長の命により明智光秀に滅ぼされた「丹波攻め」は有名な話だが、辻の淀山城と四十九城、辻の東の山(飛曽山)城には波々伯部氏が守備についており、波々伯部神社の名前もその由縁であるとも考えられるが、1086年に波々伯部の保(領地)が祇園社に寄進されたとあり、波々伯部の名前がいつ頃からあったのかは定かでない。
ただ1331年(元弘元年) 波々伯部為光が淀山を居城にしたとあり、1579年(天正7年)八上城が落城するまで、248年間この地は波々伯部氏によって統治されていたことになる。
その丹波攻めの攻防で破れた波々伯部氏が武士を捨てた折に中の「々伯」を取って「波部」にしたという言い伝えがある。その波々伯部氏は波多野氏が伯耆の国(鳥取県大山の麓)から丹波に来たときに追従してきた家来とする伝記もあり、その名前の由来は支配していた領地が大山町を中心に海の近くであり、波が泊まるところの場所からその名が付けられたのではないかとする説もある。
ちなみに「八上」も領地であった因幡にある地名から付けたもので、その場所には淀町と呼ばれる所もあり、淀山城の名前もふるさと伯耆の国をしのんで付けたとも考えられる。秀ちゃんの個性もなかなか楽しいが、波部姓のルーツにはすごいものがある。
庄屋屋敷が現存している
宮ノ前は門前町として栄えた集落でもあるが、田畑も多くやはり農業が主産業であることにはちがいない。宮ノ前に多くの田畑・山林を所有していたのは、庄屋であった向井本家。築100年を超える本屋の西側には、今も江戸時代に建てられた古い造りの奥座敷があり、青山のお殿様が休憩されたであろう部屋が残っている。
お百姓を束ねていたのは庄屋様である。黒豆を特産品にと優秀品種の改良を指揮し「波部黒大豆」を作り上げたのは、庄屋であった波部本家。石門心学の学問所を県内でも最も早く設立したことでも、優れた地域リーダーであったことは事実だ。
御大師さんやお稲荷さんの寄進、生活道路となっていた橋の建設など、集落の各所に庄屋である向井本家の寄付を記したものがあるが、地域を発展させる責務も又庄屋に科せられていたのだろう。
子どもが主役の稲荷講
祇園山のふもと、波々伯部神社の西80㍍ぐらいの所に赤い鳥居のお稲荷さんがある。老朽化し今にも壊れそうなお社だが、思い出の詰まった場所である。昭和30年頃に白木の新しいお社が造られたと記憶しているので、50年近くは経っている。
毎年12月になればお稲荷さんの掃除を1週間ぐらいかけて掃除をするのが子ども達の役割だった。お正月前に掃除をさせる目的があったのかも知れないが、その後に「稲荷講」と呼ぶ子どもの講が、年長者で長男の家を順番に会場にして開催された。
講の当日は色とりどりの「奉納○○○」と書いた「ノボリ旗」を持って、当番の家から一列に並んでお酒やあぶらあげのお供え物を先頭に、奉納の儀式をするのである。旗をお社に立て掛け、拝んだあと御神酒をふるまわれるのであるが、初めて口にする酒の味に大人になったような気持ちになったことを覚えている。中学校になった子供は講から脱会し、その子の名前を書いた旗はお社の後ろに奉納され、朽ちてしまうまで置いてあった。
親が用意したチラシ寿司かカレーを食べて、いよいよお楽しみのゲームが始まる。上級生が「アブラ屋」(富さんと呼ばれる女性がいてぼろくそに言いながらも面倒見の良い人だった)で買い揃えてきた文具を巾着袋に入れ、棒の先にぶら下げたものを下級生に取らせるのである。背丈より高く上げられるもので、捕り手はピョンピョンと兎のように飛び跳ねなければならず、その滑稽な姿に大笑いしたものだ。
子どもの数も少なくなりいつの間にか伝統行事であった「稲荷講」も行われなくなっている。お稲荷さんの掃除は当番地区を順番に回しながらお正月前に掃除をするのと、役員が草刈りをするぐらいになっており、赤い鳥居も朽ちて取り壊されてしまった。
大正飢饉に雨乞いをした宮司
関東大震災の前年、大正13年は長い間雨が降らず大変な飢饉であったという。田畑の水は枯れカラカラに乾いた地表はヒビ割れて稲穂は萎れて枯れる寸前、大川(篠山川)のあちこちに井戸を掘り、撥ねツルベで水をすくい上げては、一株一株水をかけたぐらい、大川までもが渇水したということだ。
見かねた波々伯部神社の宮司が雨乞いをすることとなった。この地で一番高い弥十郎ヶ嶽に上がり、雨乞いの祈祷を3日3晩不眠で続けたという。ムラの青年達も協力し必死の祈祷が続いたが、一向に雨の降る気配もなく、さらに3日3晩と宮司が命がけで挑んだ祈祷は続いたという。
ここで一転空は俄にかき曇りカミナリとともに、待望の雨が降り注いだと言うことになれば目出度し目出度しなのだが、雨が降ったという記録はない。
しかし、波々伯部神社の宮司さんが農民の窮地を救うために、命をかけて不眠不休の祈祷をされたことは、語り継がねばならぬ事実なのだ。子ども心に覚えておられる方があってもすでに100才近い方であろうが、30年も前に古老から聞いた話である。不信心な者ではあるが困ったときの神頼み、祭りや都合良い時だけ氏子の顔をするのもどうかと思う。日々の参拝までもはできなくても、神社に心を寄せる氏子でありたい。
燃えながら馬車が走った
国鉄バスの前は省営バスと言っていたそうだが、昭和20年までの戦前には銀バスと呼ばれたりしていたようだ。タクシーなども無くバスで嫁入りをしたという話も聞いたことがある。結婚しても新婚旅行などはなく、夫婦で伊勢参りをするのが普通だったらしいが、昭和30年頃になって流行し始めたという。
その銀バスの前は乗合バスが合ったのだが、木炭車で所々に木炭や石炭を置く場所があった。木炭車の前は乗合馬車だったといい、福住から篠山口に乗合馬車が往復していたと聞く。ある時暖房用に積んでいたコンロから引火し馬車が燃えだしたため、驚いた馬が無人のまま走り出し、燃えながら宮ノ前の村中を走り過ぎたということだ。馬も偉いもので篠山口まで走っていたということだが、馬車本体は焼けてしまって真っ黒だったということだ。