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昔の遊びシリーズ

昔懐かしい遊び「ホウケ」

 宮ノ前とその周辺集落だけに伝わっているのではと思われる遊びがある。「ホウケ」というのだが、鬼をひとり選び、その鬼が100を数える間に見つからない場所に隠れるのである。隠れるエリアが村の中全部、しかも民家の納屋や灰小屋にまで隠れられるというから、なんともスケールの大きな「かくれんぼ」である。
 上級生が下級生をリードしていろいろな所に隠れるように指示をするのだが、うまく隠しすぎて見つけられず、夜になって子どもが帰らないと親から苦情が来たこともあった。積み上げた藁の中に隠れるように指示をしたのだが、当の子どもは温かくて寝てしまっていたらしい。ゲームが終わったのか終わらなかったのか日の暮れとともに自然解散をするのが常だった。

昔懐かしい遊びを「ケッタ」

 「缶蹴り」はどの地域にもある子どもの遊びであるが、同じようなルールでする遊びに「ケッタ」と呼ばれるものがあった。「ゲッタ」と呼んでいたという意見もある。鬼を決め、缶カンを踏みながら鬼が20か30を数える間に、他の子ども達は建物の陰に隠れる。陰から隠れたメンバーを探し始める鬼の様子をうかがいながら、鬼が缶カンから離れるのを待つ。鬼に見つかり名前を呼ばれ「○○さんケッタ」と缶にタッチされると負けになり、全員が見つかるまでゲームを続けるのだが、残っているメンバーを探すために鬼が缶から離れたスキをみて、勇気のある者が缶カンを蹴飛ばしに出る。うまく蹴飛ばすとゲームは振り出しに戻り、鬼が缶を元に戻している間に、見つけられていた者も再度隠れ直すことができるというルールだ。何回も蹴られ泣き出す者も出てくるが、上級生がうまく加減をしながら弱い者いじめにならないようにしていたのか、日の暮れとともに終わっていた。
 同じ様に屋根にボールをほり上げて、名前を呼び、呼ばれた人がそれをキャッチする遊びもあったが、名称が出てこない。何だったっけ。

昔は水車小屋があった

 昭和30年頃といえば、農作業もまだ手作業が中心で、田を鋤くのは牛に引かせ、田植えはみんなで並んでの共同作業。田の草取りはゴロゴロと除草機を押し、畦の草刈りはジリジリと太陽の照りつける中で鎌を使っての作業だった。稲刈りも手作業ならば脱穀も足踏み式の機械だった。
 精米はというと、今は「風和」になっている門脇家の裏側に「水車小屋」があり、石臼にお米を入れてカタンコットンとついていたのを思い出す。
 子供達の良き遊び場であり、クルクル回る水車の中に入って危険を承知で遊ぶ元気もんもいた。度胸試しをしていたのかは覚えていないが、この遊びは男の子の冒険心をくすぐったものだ。何人か怪我をした者もいたようだが、入院するような大怪我ではなかったのだろう、親から水車遊びを止められた覚えはない。祇園さんの前を流れる水路から水を引き、落差を利用して回す水車だった。

お大師山のソリ滑り

 御大師さんと呼ばれるのは集落の南にある小高い山のお堂のことであるが、弘法大師を祀ってあり、丹波西国五六番札所である。じいさんばあさん達のたまり場で、手作り料理を持ち寄っては楽しい語らいの場にしていたらしい。時にはお泊まりもあったというが、大師講と呼ばれる集まりである。
 その奥に山肌が崩れ落ちたところがあり、「ずり山」と呼んでいたが赤土の山肌が露出し、20メートルほどの傾斜地ができていた。もっぱら男の子達の遊び場で、木の杭を利用してソリを作り、どれだけ長く滑れるかを競い合う遊びに夢中になっていた頃を思い出す。
 小学校の四・五年生頃には自分で手製のソリを作っていた記憶があり、毎日毎日学校から帰ればすぐに御大師さんの「ズリ山」に行きそり滑りを楽しんでいた。かなり危険を意識しながら遊んだ記憶もあり、コースをはずして転倒することもしばしば、夕暮れまで熱中しては服を全身ドロドロに汚しての帰宅だった。

じゃこ捕りと魚釣り

 夏は学校から帰ると網とバケツを持って毎日のように川に魚を捕りに行った。ナイロンでできた透かし網が主流だったが、大きめの竹縁でできている上等の網は井上の「波部の網屋」で買ってきた。ムラの北を流れる淀川には晴さんの家の前から南に向かって深んどがあり、フナやどじょうがよく捕れた。時にはウナギが捕れることもあってじゃこ捕りの穴場だった。南を流れる辻川には各所に深みと水にえぐり取られた「えだた」があって、手を入れて掴むこともした。時々ザリガニがいたりして噛まれることもあったが、手に触れてバシャバシャと暴れる魚の感触は忘れがたい。
 釣りはもっぱら不乃木山の裾にあった宮ノ前池に行っていた。竹藪から切ってきた竹を笹葉を取り釣り竿にした。釣り糸や釣り針はマス屋に行って買ってきた。
 釣れるのはフナが中心だったが時々鯉がかかることもあった。池の南東に水の取り入れ口があって、よくポイントにしていたが、南西の石垣には「ドスン」か「ヌスン」と呼んでいたグロテスクな魚がいて、「つけ針」に太めのミミズを付けて垂らすと不思議なように釣れたものだ。

チャンバラごっこ

 小学校の3年生頃から「肥後の守」という小刀を持ち歩いていた。学校の教材で使っていたこともあるが、遊び道具は自分で作るのが普通の子どものありようだった。特によく作ったのはチャンバラごっこに使う刀である。山で切ってきた朴の木は細工がしやすく、子ども達はそれが祇園山にあるのをよく知っていた。篠竹も刀にして使っていたが、やはり木を削って作った刀には愛着があった。背高アワダチソウの枯れたものも使っていたが、よく折れるのが難点だった。最近忍者ごっこがはやっている様だが、ブリキを使った手裏剣や曲がった木を鉄砲に見立てての戦争ごっこもよくしたものだ。
 小刀で手を切ることは日常茶飯時で、薬も付けず舐めて治したりしていたが、、さらに斧や大きな鎌なども使いこなしていたことを考えると、結構やんちゃな子どもの頃だった。

こどもの日は山登り

 5月の子どもの節句には御大師山に登って遊ぶことをよくしたものだ。木々の間に長目の枝を横に渡し、檜葉で囲って隠れ家(砦)を作り、チャンバラごっこに興じたり、昼には頂上で親が作った弁当を広げて食べた。隠れ家に敷き詰め座敷にするために檜葉の葉を手当たり次第に切って集めたまではよかったのだが、隣村の個人山に植林されていた檜を先から切り取っていたため、えらくしかられた記憶がある。親共々に謝りに行ったのだが、おそらく親たちが弁償してくれたのだと思う。年長者の立場もあってその失態は、子供心ながらに罪の意識が長く残っており、今なおトラウマのように感じている。
 山の中を駆け回ったお陰で、今でも水晶山での水晶の採掘や水苔の在処を覚えている。シキミの木がある日蔭の谷や太い篠竹がある場所は大人達から教えてもらった知識でもなく、遊びの中で身につけた雑学、生活の知恵であるように思える。下級生への配慮も危険な遊びの限界も、大切な仲間づくりや共存のあり方も、どっぷりと自然の中で遊ぶことで学んだことだと気づくこの頃。


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