宮ノ前今昔物語
ムラに電灯がともった時
日本の電灯の歴史は明治の文明開化ということだが、篠山に電灯がついたのは明治の終わり頃である。王地山の麓、河原町に篠山電燈株式会社の経営する火力発電所があり、そこから送電されていたということだ。
古老の話によると宮ノ前は大正12年に初めて電気がついたのだが、各家庭には1灯の電球が付けられ、夕方になると一方的に送電され朝には切れていたという。まだ電気なるものの知識もない時代のこと、ローソクやランプと比べると、その明るいこときれいなことに大変驚いたそうな。おじいさんがその灯で煙草を吸おうとしたが、いくらスパスパしてもつかないと不思議がったという。
子ども達は毎晩のようにムラの西端の家にいて、電気がつくと同時に東端の家まで走っていったのだが、電気の点く早さには勝てなかったという笑い話がある。今から80年から前の話だが、その当時に生まれた人がまだ健在なことを思えばそんなに昔のことでもない。ちなみに後川地区には小柿に水力発電所があり日置より早くに電気が点いたそうな。後川の人たちは日置に行くことを「奥に行く」と言うらしい。
宮ノ前は過疎になっているのか
最近、日本の大きな課題といわれる少子高齢化社会の到来。宮ノ前はというと確かに高齢者世帯が多くなってはいるが、今から220年ほど前の古文書によると、1783年(天明3年)に篠山藩が調べた資料には、戸数32軒、人数は130人(男69人・女61人)と記されている。現在の戸数は30戸としているが、建家の数は36軒あり、人数は120人となっており、少し減少しているものの過疎というほどでもない。ただ65才以上の高齢者世帯が一人暮らしを含め8軒もあり、これから先には近所の見守りが必要になりつつある。
年3回の村日役である道作りや川の草刈りに高齢者や女性が多いと、若い人たち(実際は40・50代)の負担がきつくなり、各家に次世代の参加を極力お願いしなければならないのも現実である。
人口が一時的に増えたのは、昭和20年前後に戦火に追われて都会から疎開していた人たちが多数いたからとのこと、名前は詳細にわからないが、一度は宮ノ前の住人になった人たち、機会あれば出会ってみたいものである。
宮ノ前池のジャコ捕り
不乃木山の麓にあった宮ノ前池は周囲400㍍もある大きなものだった。数年に一度水を泥樋まで抜き、魚を捕るのが村人たちの楽しみで、それぞれに大きな網を持ち、我先にと池の中に入ったものだ。鯉は一番の獲物だったがウナギもみんなの狙い目で、ウナギが捕れるたびにあちこちから大きな歓声が上がった。
まだ小学生の低学年の頃、下に沈めていた網に突然大きなウナギが飛び込んできたため、ビックリ仰天必死ですくい上げたが、そのウナギが一番大きな獲物だったと大人達から誉められたことが、幼い心に無償に嬉しかったのを覚えている。泥を吐かせ蒲焼きにしたウナギの美味しかったこと。
今では宮ノ前池の面影はどこにもない。他所で行われるジャコ捕りのニュースがうらやましくもある。
国鉄バスの思い出
長い間なれ親しんだJR(国鉄)バスが神姫バスに代ったが、バスの歴史にもおもしろいものがある。高校に通学していた昭和40年頃に今の様な形のバスになり、「鼻ベチャバス」とか「箱バス」の愛称で呼ばれていた。バス通学の生徒がほとんどで数も多く、超満員の時などは女生徒と背中合わせになると心臓がバコンバコンと高鳴りしたものだった。
本篠山(小川町)の営業所から、篠山口からの来たバスに連絡して、福住行、後川行、大芋行、園部行などの各方面にバスが出ていた。川沿いの道路は完成しておらず、河原町の狭い道を屋根ギリギリにバスは通っていたが、今の様に交通量の多い時代だと大変な状況になっていることだろう。
小学校3年生の時に宮ノ前子供会のバス旅行で「汐狩り」に行った。真新しいバスに子ども達は興奮したが、前にエンジンが付いている鼻の出た型式の車だった。運転手は西本荘のゲンさんだったが、宮ノ前のため特別に手配してもらったと親たちが感謝していたのを覚えている。
篠山口の駅前を通り南矢代や草野、藍野を通った記憶があるが、今の道はバスが通れるほどの幅があるようには思えないし、道路はまだ舗装もされてなかったため轍ができてよく揺れたが、そんなリズムも今となっては懐かしい。
牛で田んぼを鋤いていた
昭和35年頃までは農家には牛が飼われていた。肉牛として育てる目的もあったのだろうが、牛は田仕事にはなくてはならない、家族の一員でもあったのだ。田を耕すには牛の牽引力が頼りになる。牛の背中に鞍を付け、鋤を引っ張らせるのだが、「チャー・チャー」「チェチェ」とか発しながら合図を送る。農繁期にはまだ小学生だったが手伝わされていたからだろうか、牛を操るすべを知っていた様にも記憶している。
中学生の頃に耕耘機がお目見えし便利なものだと感心したが、今は大型トラックターでアッという間の作業になった。田植えをするのも、稲刈りも、農機具の進展には限りがないほどの驚き様である。テレビやステレオ、クーラーまでも付いているという。背広姿で農作業をする時代が来るかも。
牛に餌をやるのは子どもの仕事だった。夕方には藁を切り。油かすなどと混ぜて炊いたものを与えた。よくなついていた牛が売られていく時は本当に悲しかったものだが、入れ替わりに来た仔牛の世話に夢中で、悲しみもいつの間にか消え去っていたっけ。でもあの牛、今に思うと牛肉にされていたんだなぁ。